設計・・・大阪市 1933
大阪府大阪市浪速区
大龍堂書店内より昭和初期に建設された大阪初の鉄筋コンクリート造3階建ての市営アパートで、浴室こそ無いものの、当時珍しい水洗トイレを備え羨望の的だったと言います。全体の住戸位置は中央に南北軸の2棟を挿入した“ロの字型”プランで、中庭の樹木が階段室低層の建物と相俟ってシットリとした空気を漂わせています。そして何よりも、銘々各住戸が自前でベランダや庇上部に増築した「出し家」の光景が実に見事・圧巻なのです。今は無き香港・九龍城も如くありなんといった迫力、コルビュジェのぺサックの住宅や東京・同潤会のアパート群も真っ青といった趣で、大阪人の居住意欲に改めて度肝を抜かれます。
軍艦アパート(下寺住宅)は西は電気屋街の日本橋、東は寺が密集し寺町を形成している松屋町筋、そして南は新世界・飛田・釜ヶ崎という、大阪の最も深そうな場所に存在している。建物は三階建てで、8棟からなり、総戸数は264。
軍艦アパート2001によると昔は幾つか軍艦アパートが存在していた事がわかるのだが、今ではこの下寺住宅以外取り壊され、このような新しいアパートに建替えられている。
軍艦アパートには「出家(でや)」または「出し家」と呼ばれる増築部分がある。それがこのアパート最大の特徴なのだ。おそらくこの出家は、時代の変化において手狭になった部屋を拡げようとした結果なのだ。
出家をたくさん観察していると、上の写真に写っている「出家」ともう一つ、普通の木製手製のベランダがある事に気付く。出家というのは最初はベランダを作ったところから始まり、そのベランダにトタンで屋根と壁を付け加えていったりと、進化していったのではないのだろうかと思った。
読売新聞2006年2月8日水曜日夕刊空襲でも焼けなかった。煙突が台所のかまどの煙をはき出すさまを、辺り一面の焼け野原から見上げた人々は不沈の戦艦になぞらえ、こう呼んだ。
軍艦アパート、と。
軍艦アパートのもう一つの特徴である煙突。これはアパート各棟の共用階段の屋上両サイドにある。
軍艦アパートの全写真はFlickrにupしてあります(約130枚)→pan-o's photos warship apartment set
スライドショーで見る→SLIDESHOW
軍艦で有名な長崎の軍艦島はコチラ>>関西今昔建築散歩:軍艦島(端島)
※06/07/02一部記事・画像改編
軍艦アパート。
私の母の実家です。私の祖父母の暮らした家であるわけですが、既に祖父母はこの世になく、私も訪れなくなって久しい(最早20年は経ちます)場所です。
この建物のでは、祖父母の他に親戚がお好み焼きやを営み、飲食店であるにも関わらず何故か大型のコリー犬を飼っていました。母の幼なじみの桶屋の兄ちゃんがいたり(母は若い頃、この桶屋の兄ちゃんたちとよくスキーに行ったそうです)。
建物のアチコチには新世界で公開予定の映画のポスターが貼られていたり(任侠ものが多かったですね)、そうそう駄菓子屋さんもあったりしました。桶屋の向かいにありました。
私自身は大阪郊外の新興住宅地に住み成人しましたが、この軍艦アパートが私のルーツであるとしっかりと感じます。
既に取り壊されて久しいようで、これから訪ねることもできない場所。あまりの懐かしさにコメントした次第です。
私の子供の頃には、アパートの前に水飴の屋台が来たり、ポン菓子の屋台が来たり。小さな子供も沢山走り回っていた軍艦アパートでした(30年近くも前でしょうか)。
Taiji at 2005年05月03日 14:00いくつかあった軍艦は今はもう下寺町のアパートしか残っていないようです。
周りに新しい市営アパートがいくつか建っていて、それが建替えられたものだなと、思わせます。以前の様子は知らないのですが、行った時は普通の住宅街の様で、その昔の良いモノが無くなってきているように感じました。
貴重なコメントありがとうございます。
私もあそこでうまれたひとりです。小学校にあがる前に他へ引っ越してしまったのですが、おばあちゃんがあそこでずっと住んでいたので、私も学生の頃にまた居候をしてとても楽しい時間をすごしたのを思い出します。数年の間でしたがあそこで過ごせた事をとてもラッキーだったと思います。
今は壊しているみたいですが、愛染橋病院もいい雰囲気の建物だったし、中庭でくつろぐおばあちゃん達、(本当にみんなパッチに白いランニングで)夕ご飯のおかずを交換したり、とてもいい雰囲気でした←もちろん平成の時代です。あそこだけ時間が止まっていたのだろうかと思います。今日久々にいったらあまりの変わり様に記憶を辿っても元の姿が暫く思い出せないくらいでした。
是非pan-o さん、もっと取材できるなら、色んな角度からあのアパート達を記録してあげてほしいです。
だけど沢山の写真ありがとうございました。あとtaijiさんのおばさんと私のおばあちゃんはお友達だったかもしれませんね。
くっくさん、貴重なコメントありがとうございます。
僕は、写真を撮る事しかできないのですが、このアパートに住んでいる方や、日常の風景、建物の増築部分の使われ方とかを整理できたらなと思っています。
しかし、どうやらこの下寺住宅も取り壊されるという噂(不明)なので、今月中にも再度行ってみようと思います。
軍艦アパートに関する記事をワタシのブログに載せたのました。
その時に、こちらのブログがかなりきちんと写真やコメントがされているので、参考にさせていただきました。
でも、この軍艦アパート、取り壊しが決定しましたね。
解体後、学術調査されるらしいです。
1010系さん、ありがとうございます。
取り壊しが確定してしまったのですね。大体いつ頃解体されてしまうのでしょうか?
多分今年はまだあると思います。
来年の春前頃に解体されるのではないかと思います。
くっくさん返事が遅くなりました。
というのも、軍艦アパートへ行ってきました。以前のコメントで「別の角度から」という指摘を頂いたので、色々撮ってみましたが、なかなか難しいですね。とりあえず、下のリンク(上の記事内のリンクと同じ)に写真を約50枚追加しました。
http://www.flickr.com/photos/pan-o/sets/623634/
このアパートは来年くらいに無くなるようですね。近くの銭湯が来年一月には閉鎖されるとの事です。そして、去年行った時より、空き家が増えているようでした。
pan-o at 2005年11月22日 22:39昨日、行ってまいりました。まだ取り壊されてませんでしたが少しずつ段取りは進んでいるように感じました。ここを訪れると幼少の頃の大阪が思い出されます。それだけに取り壊しについては仕方ないと思いながらも残念でなりません。
テレ at 2006年01月26日 00:15pan-oさん、写真ありがとうございました(泣きました)。
あの建物は残したほうがよいのにね。
赤い壁の建て増しの部分のお家は知っているおじいちゃんが住んでいました。おじいちゃんはとても器用な人で自分の部屋のドアだけでなく近所の人のドアまで(勝手に?(笑))塗り替えていましたよ!
>>テレさん
コメントありがとうございます。建物はまだ当分(といっても数ヶ月)無くならないとのことです。住民の方達の引越しは今月の15日頃から始まったようで、最近何度かアパートへ行っているのですが、引越しやその準備のためか、今までと違い人の出入りが頻繁でした。普段はゆっくりしたアパートの雰囲気も何だか慌ただしく、もうすぐ無くなるんだなと感じました。
>>くっくさん
今の時代他所の家のドアを勝手に塗ったりすれば、戦争です。
しかし、それが許されるというか、喜ばれる時代・社会があったのですね。
今や軍艦アパートの象徴となった「出し家(増築部分)」も、そのように器用で親切な人達が、他の住人のために造って上げたのが、「出し家」がたくさんできた理由かもしれませんね。
コメントありがとうございました。
初めまして。今日新聞で今月一杯で取り壊すことを知りました。アパートを始めて知ったのは13年前になりますが、それ以降脳裏から抜けていて突如取り壊しの情報を知り、PCで検索したらこのページにたどり着きました。写真を拝見して過去を思い出しました!
取り壊わされるのはかなり残念ですが、これもまた時代の流れなのでしょ。その場所にはまた違う時間が流れるのでしょうね。
たいちょ〜さんコメントありがとうございます。私も新聞読みました!
この下寺住宅も取り壊しが決定して、ここの時間の流れが変わろうとしていまね。築73年というのは僕の人生の数倍もある想像できない時間ですけど、それが終わるんですよね・・。このアパートを知って2年しか経っていないので、とても残念です。
ちなみに僕の読んだ新聞(2月8日読売新聞の夕刊)によれば、解体は来年となってましたよ。
pan-o at 2006年02月10日 02:28この建物 何度も見にいきました。勝手に増築してしまった所が、いかにも大阪チックな、生命力を感じてしまいます。また一つ、大阪らしい風景が、無くなってしまうのですね。そのうちに、全国どこでも同じ様な風景に、なっていくのでしょう。言葉にたとえると、皆、標準語を喋って、方言がほろびていく様な物でしょうか。この建物は、コテコテの、大阪弁ですよね。
マイケル冗談 at 2006年02月10日 19:53今日見に行ってきました。数人の人が写真を撮りに来ていましたよ!
久々に見てやっぱし無くなるのは寂しいです。
何か新たに建つと思いますが心に残る様な建物が出来るといいのですが。
取り壊しの日程は 確かに読み間違ってました。来期と載ってたので4月以降の何時かは未定なのですかね。
>>マイケル冗談
大阪らしい風景について考える良い機会だと思ったのですが、難しい問題ですね。
技術の発達や、色んな情報を共有できることが、マイナスに働いているような気がします。これらを上手く使って逆に「らしさ」を取り戻せたら良いなと思います。
>>たいちょ〜
実際取り壊しっていつになるんでしょうかね?
住民の方達が立ち去った後は、囲いが設けられてしばらく放置されるのでしょうか・・・
はじめまして。今回東京から軍艦アパートの方に立ち寄らせていただきました。
初めて知ったのは昨年末、そして今度は二度目になります。今回は住人の方もほとんど転居済みでした。
以前はフリッカーの方でお邪魔した事があります。
コチラのブログに 大変興味深いエントリーがたくさんありましたので 参考にさせていただきたく思います。
またお邪魔させていただきたいと思います。
よろしくお願い致します。
昨日、軍艦アパートへ行ってきました。この建物の存在は十数年前から知っていましたが、最近、新聞等で取り壊しが話題になったりして、取り壊しの前に見に行こうと何度か足を運んでいます。あの、路地の中の土の上に建つと何故か気持ちが落ち着くのです。住んだこともない土地なのに、あの場所は子供の頃、よく遊んだ長屋の前の湿った土を懐かしく思い出せて、昭和のよき時代にいっぺんに戻してくれます。昨日は、取り壊しを知った、鉄くず集めのおじさんたちがこぞって自転車で物色に来てました。ちょっと待ってって感じでした。。
ひろ at 2006年02月28日 20:04>>シンパさん
3月になりましたが、もうそろそろカウントダウンの始まりで、無くなってしまうんだなと感じてきます。
長旅お疲れ様でした。こちらこそシンパさんの写真楽しみにしています。
>>ひろさん
軍艦アパートの敷地に入ると、体の中に流れている空気が入替わるような、不思議な感覚になりますね。
鉄くず集めのおじさんたちがやってくるというのは、枯れた花が土に戻っていく事と似ているというか、もう咲かないんだなと、感じさせますね。
コメントありがとうございました。
たまりません。。。残念です。
いい写真を残していただきありがとうございます。
コメントありがとうございます。
忘れたくないものです・・・。
写真見させていただきました。懐かしいです。
ありがとうございます。
記憶違いや間違いがありましたらお許しください。
「出し家(増築部分)」の使われ方ですが、勉強机など置いていたと思います。1階の場合は台所にしていたりしていました。(建物を中心にして両側で2ヶ所増築できるのですが1階の場合は3ヶ所になります。#1で1階と2・3階の増築の違いがわかると思います。)
「出家というのは最初はベランダを作ったところから始まり、そのベランダにトタンで屋根と壁を付け加えていったりと、進化していったのではないのだろうかと思った。」→おおよそ、そうだったと思います。
確か5月だったと思いますが、お稲荷さん(東の神社)のお祭りがあって、小さな「山車」(というほどのものではないですが)大きな太鼓(なんか表現が矛盾)をのせて、みんなで掛け声かけてひっぱって町内をまわり、お菓子がもらえました。上にのって太鼓をたたくとお小遣いがもらえました。
お地蔵さん(西の神社)は、お盆に地蔵盆があって、なんかしてた・・・。太い丸い大きな縄をみんなでまわしていたような・・・すみません。
住宅の中心部の右部分(39と111の間)の建物は住居者用の小さな倉庫(物置?)が内側に並んでいます。「左上から中央にかけてL字状になっている緑色の部分」は余り通らなかったのですが、同じだと思います。その上(屋根)の部分にあがる手段がないのですが、電信柱を登って、上にあがってしまったボールをとりにいったりしてました。
写真では階段部分の外側にクーラーがありましたが、以前はツツジなどの盆栽などが置かれていました。
コメントありがとうございます!
アパート内の神社で祭りや地蔵盆が行われていたんですね。「小さな山車」というのは、子供だんじりの様なものなのでしょうか。こういった行事がこのアパートで行われていたんだと思うと、解体される事がまた残念で仕方ありません。
今年に入ってから軍艦アパートの様子を見に行ってきました。去年、まだ取り壊されていなかった北側のアパートに、フェンスが立ち、足場が組まれ、シートが張られ、本格的に解体が始まりそうでした。
pan-o at 2007年01月28日 23:25 お祭りといっても出店があるわけではありませんでした。出店があるといえば、7月だったと思うのですが「愛染さん」がありました。(すぐ近くの大江神社でもお祭りがありました。)
下寺の東側の台地はお寺(ちょっとお寺と神社の区別がつかないのですが)がたくさんあります。(へいをのりこえ『ごめんなさい。』ザリガニとりしました。ハイどなられて怒られました。)このあたり(ざりがにとりしたところよりずっと北−その付近の地理感覚です−)は学園坂、口縄坂があり、口縄坂はとても好きな光景です。学園坂は車で走るとチョットスリリングでした。(今は大阪ではないものでどうなっているのかわからないのですが。)
「『小さな山車』というのは、子供だんじりの様なものなのでしょうか。』(楽しかったですよ!)子供だんじりという程のものではなく、屋根や飾りはなく、木製のかこいのついいた台車に大人が手を回してたりないくらいの大きさの太鼓がおいてある大きさのもので、四方に腰掛けて、太鼓をたたきました。それを皆が引っ張り町内をグルリとまわりました。
それから1階が3ヶ所増築、2階が2ヶ所増築ですが、1階の場合、ご承知だと思いますが裏玄関があり、出入りできる部分を増築していまいした。・・・ですが、2階にできない増築=お手洗いの換気を塞ぎます。ですから「クサイ」ときがありました。
下寺と南日東の間にあった愛染病院は移築されたのを知りました。このすぐ近くに「愛染橋」があったと聞きます。
「日外酒店」があったと思いますが、「あぐいさけてん」と読みます。ビール瓶を返しにいって1本5円のお小遣いをもらいました。
この建物の中には集会所(北西の角の1階の一室)がありました。
コメントありがとうございます。
僕自身アパートに関してほとんど知らない事ばかりで、聞き返す事になりますが、
「1階が3ヶ所増築、2階が2ヶ所増築ですが、1階の場合、ご承知だと思いますが裏玄関があり、出入りできる部分を増築していまいした。・・・ですが、2階にできない増築=お手洗いの換気を塞ぎます。」
とありますが、一階の裏玄関というのは、前言っていた住居者用の倉庫があった側の事でしょうか?
2Fの増築の場合、トイレの換気口を塞いでまで生活スペースを増やしたんですね。想像するに、トイレの換気口の事を考えず増築し、その後トイレの匂いが換気口から増築した部屋に入ってしまい、それを防ぐため換気口を塞ぎ、換気のできないトイレができてしまった、という事でしょうか?
台地のお寺や日外酒店でのやりとりを聞くと、近所の人に怒られたり褒められたり、近所付き合いがあって羨ましく思います。
>一階の裏玄関というのは、前言っていた住居者用の倉庫があった側の事でしょうか?
それぞれのところで異なりますがそうです。
下寺の俯瞰図を仮に次のようにした場合
ハ
□ □□□□ □□□□
□ □ニ □
□ロ□ □ □イ□
□ □ホ■ □ □
□ □ □ □ □
□ □ □
□ □□□□ □□□□
□□□□ □□□□
住居者用の倉庫って、イやロの位置のを言われていると思いますが、階段のある側、例えば「ニ」の玄関とは別にハの位置にあります。
確かにイの位置にも裏の出入り口があるのですが、各居住者の倉庫がありますので、そこは拡張できるスペースはありませんでした。
拡張ができる範囲は居住している場所により異なるということになります。
>2Fの増築の場合、トイレの換気口を塞いでまで生活スペースを増やしたんですね。
いえ。
1Fの場合、「ハ」を2ヶ所(窓の部分と裏の出入り口の部分)増築できますので裏の出入り口の部分を塞ぐと「換気のできないトイレができてしまった」です。
2Fの場合は窓の部分だけの増築でしたので、トイレの換気扇(窓?)は塞いでいませんでした。
もし、■の位置のホの写真があれば裏口が写っていると思います。
(イは倉庫でわからないと思います。)
すんごい略図で申し訳ないです。
at 2007年05月11日 20:50久しぶりに写真を見にやってきました。
ずっと行けなかったのですが、この間アパートを見に行ってきました。アパート、というよりアパートの跡地ですよね。
すっかりなくなってしまって、またまた泣いてしまいました。
お年寄りのみんなはどうしているかなあ〜。
pan-o さんのたくさんの写真を見て、私がまだアパートの鍵を持っていた頃、部屋の中も見せてあげたかったな〜〜って思います。
これからもいろんなものを記録していってほしいです。
軍艦アパートについて、ブログの記事を書いたのですが、flickrのお写真、拝借しました。
結局、中に入ったことはなかったのですが、初めて見たときの衝撃は今でも忘れられない感じです。
TBしたかったのですが、なぜが出来ないので、コメントにて失礼ます。。。
この建物の歴史について調べています。
戦時中も、市営住宅として機能していたのでしょうか?
またこの建物が建つ以前にどのような用途で使用していたのか、ごぞんじの方おられましたら教えて下さい。
私の主人の実家が下寺住宅でした。
約15年前、当時彼氏だった主人の家に初めて行った時はビックリ!!
正直カルチャーショックでした。(家賃を聞いて、もっとビックリ!)
3年半前、主人の実家は日東住宅に変わりました。
最近は若い世代の入居者も増えたようですが、
やはり昔から付き合いのある下寺チームは濃い関係のようです(笑)
下寺住宅がライフになり、おばあちゃん達喜んでます♪
軍艦アパート跡にマンションとスーパーライフが完成しました。
100円 at 2011年01月11日 18:14 100円さんコメントありがとうございます。
軍艦アパートが建つ前は何があったのでしょうか。
http://www.flickr.com/photos/pan-o/4143522832/
ライフと向いにコインパーキングができてます。なんかばっさり時の流れを変えられた感じです。
http://kenchiqoo.net/info/archives/000708.html
解体前から解体後の流れです。
市営住宅になる前は、住友財閥が所有してたようです。
100円 at 2011年01月13日 17:09私も小学校に入る前〜4年生の2月期頃迄住んで居ました。当時は1号艦、2号艦と言う呼び方していました。艦の中で夏は盆踊りも有りました地蔵盆では長い数珠を子供たちたで、なんまいだ、すっぽいだ、ぼうずあたまをはりとばせ、と言ったかけ声で数珠を回しました。遊びでは、べったん、バイ、びーだん、こま、賭けての取り合いです。こまの取り合いは買って来たこまを入れ物に水を張って浸けて置きます。何日がすると水を吸って沈むのです。それをざらざらの石地べたとかで水を使って丸いこまの削って6角とか5角又は4角にするのです。それをバイの取り合いのように木のみかんばことござを使った、ぶ、の上で張り合わせ外出た方が負け、勝ち負けのルールはほかにも有り、なんどーでと言うかけ声で始めてました。季節によって艦の中で、バイ、べったん、びーだん、こま、勝ったものを集めるのが本当に楽しかった。
at 2016年11月03日 20:24